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今年こそ“おめでたい年”にしたいものだ。
今年も(テレ朝)「朝まで討論」を見た。
非正規雇用労働者が置かれている状況についての、枝野・穀田・辻元各氏の現状認識は、概ね正しいと思う。
緊急対策については、枝野氏も言われていた通り、一先ず共産党の言うような政策が必要だろう。
企業の社会的責任論や、企業倫理論については、社会において大いに議論されるべき問題ではあるが、政策についての議論(規制制度・ルールの創設)とは別次元であるべきだ。これについても、枝野・穀田・辻元・労組関係各氏などが言われていた通りである。
また、派遣村の湯浅誠村長は「企業は、まさにこういう時のために非正規労働者を増やしてきたのだから、自浄作用は期待できない」と話しているというが、その通りになったのであり、該当企業の倫理など無きに等しいのである。
ところで、お金が無くなり住む家もなくなった労働者(求職者を含む)が、無銭飲食を行い、警察官に自首したという事件があったが、これは、当然ながら犯罪構成要件に該当する行為だが、違法性(違法性はあるだろう)・責任のところで無罪(ないし微罪処分か間違って送検されても起訴猶予)だと思う。
振り返ってその背景を見ると、今回の派遣切り・期間社員の中途解雇などの中には、少なくとも派遣法違反(期間内違法解雇・直接雇用申し込み義務違反等)や労働契約法違反などがいくつか見受けられる。
これらの中には、刑事罰を含むような犯罪と言える行為も幾つか存在すると考えられよう。なお、労働関係法違反は故意犯とされる。
しかしながら、これら労働関係法違反について、司法警察員が捜査して送検したというような話題は皆無である(まあ、偽装請負についてはここ数年で幾つかあるが・・・)。
このような法益侵害行為があり、構成要件に該当し、違法な行為であっても、これらの行為を野放しにしたり取り逃がしていること自体、現在の刑事行政における他犯罪と労働犯罪とを比べると、取締りから捜査・立件まで、警察比例原則が殆ど機能しておらず、本来刑事罰の威嚇により保護されるべき法益が、保護されていないのである。
これを放置しての今後の派遣法の改正は、その効力の真偽が疑われる。
そこで私は、派遣法や労働契約法・労働基準法を改正するに当たっては、労働行政に労働基準行政以外の部門(特に、職安・派遣・需給調整関係への)司法警察員の配置をさせるよう、また、検察における特別犯の捜査体制の整備が必要であると考える。勿論、労働基準行政における司法警察員の運用体制の充実もこれまでより一層必要である。
ここまで来た現状を見るに、労働者各人に向けられた侵害行為だけでなく一般社会に対しても、労働犯罪は当に“犯罪”であって、労働関係に立つ契約は、「私法関係が修正されている」という性質を周知徹底させる必要性を強く感じざるを得ない。
一部の政治家や経済団体首脳がことさらに言及するような“企業の社会的責任論”や“企業倫理”の議論は、制度議論のなかではあまり意味を成さないように思える。勿論、倫理が法というレベル(民主的合意という手続きを経たならば制度として機能するが)に達すれば意味がある。しかし、今は「基準」の議論と、これを担保する(法益侵害に対して攻撃する)「罪刑を法定すること」と、これの運用についてきちんと「比例させる」という議論が必要なのである。
一昨年労働契約法(平成19年法律第128号)が、公布された。
制定経緯としては、従来、労働者にとって最も身近な紛争相談窓口は、労働組合であったが、近年、労働組合の組織率は低下し、非正規雇用者や小規模企業の従業員など、労働組合加入率の低い層の、公的窓口への紛争相談が目立って増加してい田ということとも関係する。また、労働者の創造的・専門的能力を発揮できる自律的な働き方に対応した労働時間法制の見直しへの要求が指摘されており、そのためには労使当事者が実質的に対等な立場で自主的に労働条件を決定できることが必要であるという指摘もあったためである。
そこで、既存の労働法規に規定されていない労働条件を定める必要性、判例での判断基準は蓄積されているものの、まだ定着しているとはいえない労働条件に関するルールを明文で定めたのが、この「労働契約法」である。
前述の通り、労働契約法は、概ね定着している判例の判断基準を明文化したに留まるものである。施行されたからといって、直ちに大きな影響を与えることはないと思われたが、運用面では昨今の現状を見るに、予想が当たった。
しかしながら変化もあった。労働契約法の制定により、労働者への周知、即ち「使用者の人事権行使に限界があること、労働条件を一方的に変更することが原則として許されないこと」等が周知されることになったのである。労働者各人の感覚・認識と、対応(行動)がそれ以前と異なってきたのである。
権利は行使できること、行使して価値がある、ということを労働者が知ったというのが労働契約法の最大の効果であった。
職業安定法・労働者派遣法・労働基準法・安全衛生法等には、刑罰規定までがある。これを周知させることと、これにより威嚇されている者が使用者(派遣先)・雇用主(派遣元ないし供給元)であるということを我々は今一度振り返るべきである。
“コモンロー”ならぬ プログラム 、即ち「法律によって護られるべき権利」だからである。
政府・厚労省(舛添大臣)や自民党の派遣切りの責任問題についての認識は,派遣労働の法的関係について,雇用関係を軸に,派遣元の責任であるとしている. 雇用関係の終了は中途解約であっても,あくまで“派遣元と労働者との問題”という整理で逃げ切る方針である.
一方,共産党の主張(後に民主党をはじめとする野党各党の主張がこれに足並みをそろえることとなった)などは,大雑把に言って派遣先に利益があるのであるから,派遣先が責任を持つべきであるという主張である(「利益説」と言えよう).
言うまでもなく我が国の労働関係は,民法の規定を特別法である幾つかの労働関係法により修正しているのである. ところが政府や与党の主張は,労働関係に立つべき契約を民法の“雇用”により整理しようとしている点で誤りである.
そもそも労働者派遣というのは,労働関係というものを「使用関係(=指揮監督)」と「雇用関係」に分け,個別の労働者について,前者を派遣先との関係,後者を派遣元との関係によって成り立たせようという制度である.
労働関係というのは使用関係と雇用関係の総和を言うのであるから,これらが別々の法人が担っているからといって,雇い止め(失業)という行為・結果を個別化して論じることは誤りである.
使用関係と雇用関係は当該労働者の労働という行為においては連帯しているのである. とくに派遣元は顧客である派遣先が少ないか,または一つの派遣先に多くの売り上げを依存している場合には,派遣切りが労働契約の終結を意味する蓋然性が高い. 現行派遣法もこの点,専ら派遣を禁止する理由となっている.
「派遣切り」=「労働契約の終了」という結果について,派遣先と派遣元との因果関係が相当にある場合には,当然派遣先も相当な責任を負うのである. もし,派遣元による“派遣切り”行為というものが,労働契約の終了と無関係ならば,労働者は派遣元との雇用関係が続くこととなるからである.
また3年という派遣期間を超えていた場合や,同一労働に繰り返し使用されていた場合には,労働者と派遣先の「労働関係の暗示的意思の合致」もあると考えられる. この場合には,派遣元と労働者の雇用関係や,派遣元と派遣先との派遣契約を否定ないし弱める要素になると考えられる. “派遣先による派遣切り”が“派遣元による解雇”を惹起し,派遣元がこれを解雇の理由としているのであれば,当該派遣元の法人格が否定される要素となるであろう. このような場合,元々派遣先と労働関係の大部分があったと考えられる.
即ち派遣元は,労働者募集を引き受けていたに過ぎない場合もある,ということである.
百歩譲って「雇用関係」を重視して派遣先に責任を負わせ,さらに使用関係については派遣先であって,使用関係の終了が派遣先と派遣元との派遣契約の終了という企業間の私的自治の問題であるとしよう.
それでも,残る「使用関係」については,労働者と派遣先との関係であるとされるのだから,労働基準法や労働安全衛生法,労働協約,その他労働関係上労使の自治の問題については労使で自治権を有することとなる. 「労使」とは「労働者」と「使用者(派遣先)」のことである. 労働環境について労働者は使用者と交渉することが出来るのであり,この関係の内,労働基準法について言えば「第1条 労働条件は,労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない. 」とあり,派遣法により労働基準法が修正されているということは無い.
何より“住居”という労働者や家族にとって生活と経済基盤を派遣先が管轄しているのであるから,派遣先は制度管轄者として「労働者が人たるに値する生活を営むもの」たらしめる作為義務があるというべきである. 解雇・雇い止めと同時に生活の場を失う労働者が出現することにつき派遣元の責任を認めるとするならば,派遣先もこの制度管轄者(ないし行為の支配者)として責任を負うべきである.
厚労省(舛添大臣)の見解は,それこそ“稚拙”であろう.
思うに、これまでの制度運用において、政府はその“制度管轄者”として権能を働かせてこなかった。合意して立法するも、制度の運用において監視と規制、職安行政を通じて労働者に対する給付をおざなりにしてきたと言えよう。
これに対する評価を行わずして、また新たな制度による規制と給付を決定しても、実行に移す手だてがなければ当該制度は無きに等しい。行政府、即ち執行機関としての意思・権能に欠けていたのである。“仏作って魂入れず”ということである。
“国家への自由”を行使するためには、少なくとも“国家による自由”を行えるだけの執行機関を作らなければならないだろう。もっとも、そうすることも““国家への自由””ではあるのだが・・・。
新年早々長文にて(日ごろのうっぷんが、頂点近くになっているため)失礼しました。
http://www.geocities.jp/sa_saitama
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