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普陀洛記 

 投稿者:暢子  投稿日:2017年 6月11日(日)13時51分22秒
  今日は、日曜。テレビ番組でならの天平の仏をとり続けた写真家の「阿修羅」をみた。
普陀洛記の句を引き続き紹介していこう。

鰤は三切五百羅漢の昼メニュー  等
石蕗の花男の振りした女の神   等
冬の田の端は絶景四人寄る    等
 
 

等さん、2017年6月です。

 投稿者:暢子  投稿日:2017年 6月 4日(日)13時16分19秒
  白桃を今虚無が泣き滴れり  耕衣

 今日、俳句自身を読み返してみた。
 以前読んだときには、わからないことだらけで立ち入るのがこわかった。

 大畑等句集「普陀洛記」が背中を押してくれたようだ。
 一句ずつ、丹念に読んでみたい句集である。

 流木の焚火のなかに国生まる   等

 
 

白桃房と白桃図

 投稿者:メール  投稿日:2007年10月24日(水)22時11分12秒
編集済
   土方は自らが踊ることを止め、弟子の芦川洋子らに振り付けをし、演出をした。その一団の名を「白桃房」としたが、この名は永田耕衣の「白桃図」による。
 澁澤龍彦展を観た後、Iさんと酒を飲みながら歓談をしたことは前に書いたが、飲み始めて一時間も経った頃、Iさんは土方にまつわる記憶がことごとく蘇って来ていた。そして土方に係わる前に、新宿で「白桃房」の舞踏を観たことをボクに話した。ジャズを聴きに行ったある店の二階でその舞踏が行われていたが、ヌード劇場と勘違いして入った客や酔っぱらいもいたということだ。女性のダンサーの二つの乳房が白桃に見えたこと、そして彼女らの舞踏に圧倒されたことを語った。

 白桃を今虚無が泣き滴れり  耕衣
 

澁澤龍彦-土方巽

 投稿者:メール  投稿日:2007年10月20日(土)07時09分11秒
編集済
  当然、「渋沢龍彦展」には「土方巽のコーナー」があった。二人は歳は同じ、入り浸りの関係にあったようだ。展示作品は澁澤所蔵品だけではなく、その何十倍もの作品は他の人の個人蔵であり、他の美術館所蔵のものであった。澁澤ワールドにはモネは入らない。対照的に、例えばゴヤ、ギュスターヴ・モロー、ダリ、ベルメールが入る。それだけでおおよその見当がつくはずだ。ボクにとっては展示作品はすべて俳諧に感じた。土方はすべてが舞踏だというように。作家と舞踏家、そして詩人、画家、写真家らが土方の廻りに集まったが彼らはどうやって互いを知っていたのだろうか?

(思考)と(言語)でなく/(肉体)をみちびき入れる/(呪詞)

とボクは書いておこう。
 

澁澤龍彦展

 投稿者:メール  投稿日:2007年10月14日(日)22時16分37秒
  ●昨日は浦賀にある横須賀美術館に行き「澁澤龍彦展」を観た。I氏と品川で待ち合わせて京浜急行で浦賀まで。電車に乗り込むやいなや話題は土方巽、永田耕衣の話に入った。1時間ほどの時間が10分ほどに感じられた。
●ボクは手提げ鞄に加藤郁乎の句集『えくとぷらすま』を入れていて、車中、郁乎の1冊の本にかける気概を二人で堪能した。じつはこの本、特装版でありながらアマゾンで829円で購入したものだった。「 函欠、カバー欠、143、264x168、表紙ヤケ シミ スレ 少イタミ 少傷 汚れ 本体ヤケ 少汚れ有り」と商品説明で書かれたその本ではあるが、そんなことはどうでも良かった。
●何故、この本を持っていったのだろうか。初版は昭和37年(1962年)でこの特装版はその12年後に限定版として出版されている。今思えば、60年代の嵐を携えて行ったのだった。「澁澤龍彦への口寄せ」のなかの一句、

  遺書にして艶文、王位継承その他無し  郁乎
 

からだ

 投稿者:メール  投稿日:2007年10月 8日(月)06時47分11秒
  「人間、追いつめられれば、からだだけで密談するようになる。」
                  『病める舞姫』(土方巽)より

下の吉岡の詩とおおいにかかわるとみたが・・・・。
 

感情などはもう・・・・

 投稿者:メール  投稿日:2007年10月 4日(木)20時56分44秒
編集済
  「・・・・ただし大事なのは、感情の物質化を心がけたことは私は一度もない、ということです。」(土方巽の講演「鼬の話」より)
「・・・・この時の土方さんのソロはすごかった。完全に自分の体を客体としてモノにまで還元した踊りを、私はそのとき初めて見ました。ダンサーというのはいくらやっても、自分の体をモノにまでするのは、自殺する時くらいでないとできないですよ。(略)手をひとつ動かすにも、普通のダンサーは中から動かすのですが、完全に外から動かしきった。そういうダンスでした。(略)・・・・完全に客体化された手を自分が追いかけるという即興の動きでした。(略)」(『土方巽の舞踏』のなかの笠井叡の談話より)


・・・・・・・

播殖期だ
    (思考)と(言語)でなく
(肉体)をみちびき入れる
            (呪詞)をとなえ
            (巣出る)蟹をとらえ
(万燈)を灯せよ
                  (吉岡実詩集『薬玉』の「求肥」より)


てのひらというばけものや天の川  永田耕衣
                  (永田耕衣句集『闌位』より)
 

白桃図

 投稿者:メール  投稿日:2007年10月 1日(月)22時56分57秒
  「私たちのように思考する者にとっては、あらゆる事物がひとりでに踊るのだ」。(ニーチェ)

吉岡実の著書『土方巽頌』の最後はニーチェの上の文章で終わっている。土方は吉岡の家に懸けていた永田耕衣の「白桃図」に「たいへん執着を示した」。この白桃図は『私のうしろを犬が歩いていた』に納められている。なるほど、桃を象ったぶっとい線がことごとく踊っている。

 餅は皆にじり居るらし雪の暮
 近山が唇吸い合うや桃の花
 手を入れて冷たくしたり春の暮
                 永田耕衣の『冷位』より
 

文体の内的な力

 投稿者:メール  投稿日:2007年 9月30日(日)20時36分6秒
編集済
  「・・・『吉岡実全詩集』・・・は、「地球が何ものにも支えられずに大気中に浮かんでいるように、その文体の内的な力(傍点)によってみずから浮かんでいる」ことをフローベールが夢見た「何も書かれていない本」の一つなのだということを、改めて私に気づかせるのだが・・・・・」-『私のうしろを犬が歩いていた』の金井美恵子の文章より

 句集を読むとき気に入った句には付箋を貼っていく。意味などはほとんど考えない。ところで、安井浩司の最新句集『山毛欅林と創造』は『安井浩司全句集』に較べて付箋が少なかった(つまり、あまり出来は良くない)。この話がある酒の席で出て、T氏と同じ見解。T氏は「重力に引っ張られすぎている」というような発言。懐かしい言葉だ。
 これから、この句集は何度か読み、ボクの見解は変わるかもしれないが、T氏の重力云々はフローベールが語った内容と同じことであろう。つっこめは一筋縄ではいかないのは分かっているが・・・・。
 

遅さ

 投稿者:メール  投稿日:2007年 9月29日(土)07時25分0秒
  「「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな。」言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくようなからだのくらし方で、私は育てられてきた。」
-『病める舞姫』土方巽著

『病める舞姫』の冒頭の文章である。Iさんは電話で「土方は詩人でもあるのだが、その文章は遅いよ」とボクに伝えた。永田耕衣の速度(速い!)をかねがねボクは喋っていたからか、Iさんは期待にそえるかどうかいぶかしがっていると想像した。しかしボクは「しめた!」と思ったものだ。遅さこそ安井浩司の鍵であると思っていたからだ。
 

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